昔、もっと言うと中高生の頃の話なのですが、 「 自分は、誰の一番になれているのだろう 」 と悩んでいた時期がありました。
中学生の頃は、それは友人関係の中での話で、 「 一緒に帰っていた友人が、別の誰かを見つけて、そちらに行ってしまう 」 、 「 とても仲がよかったはずなのに、クラスが離れると話さなくなる 」 なんてことがあって、そのときにふと、 「 自分の一番の友人 」 とか 「 自分のことを親友って思ってくれている人 」はいないんじゃないかと考えてしまったのですね。
そして高校に上がると、その悩みはそのまま異性関係に移っていきました。自分の好きな人は、どうして自分のことを好きになってくれないのか。誰とも付き合えない自分は、誰の一番にもなれないまま終わっていくのではないか。
そんな悩みを漠然と抱いていました。
なぜ人は、 「 誰かの一番になりたい」 とねがうのでしょうか。
この 「 一番になりたい 」 という言葉の定義は非常に難しくて、たとえば、 「 二番目に好き 」 には価値がないのか。あるいは、 「 今、一番好きな人やもの 」 が、数年後も変わらず一番である保証はあるのか。 「 一番(好きなど) 」 という感覚は、とても流動的で、その時々の状況や感情に大きく左右されるものなのです。
それでも僕らは、すべての物事に対して、無意識に順位のようなものをつけて生きていますよね。社会の構造 ( 「 採用 」 「 不採用 」など ) もそうですし、恋愛や友人関係の中でも、 「 本命 」 や 「 キープ 」 といった形で、序列のようなものが自然に生まれていく。そして同時に、自分が他人から見て何位なのか、ということも強く気にしてしまうのです。
ここで、少し視点を変えて考えてみたいのですが、 「 一番であること 」 は、いわば 「 選ばれている状態 」 と言い換えられると思います。誰かの中で、自分が他の誰よりも優先されている。
それはたしかに、わかりやすく安心できる状態ですよね。
ではなぜ、 「 選ばれている 」 と安心できるのでしょうか。感覚的には当たり前の話ですが、少し掘り下げさせてくださいね。
結論から言うと、 「 人は自分の価値を、自分だけで判断することができない生き物だから 」 だと思うのです。
だからこそ、鏡を見て自分の姿を確かめるように、他者からの評価を通して、自分の存在を確認しようとする。そのとき、 誰かの「 一番 」 や 誰かに「 選ばれている 」 というのは、とてもわかりやすく、魅力的な基準になるのですね。
ただ、この他者からもらえる安心感には落とし穴があるのです。それは冒頭に書いたように、 「 他者から見た順位は、固定されたものではなく、常に変動する可能性がある 」 ということです。昨日までの一番が、今日も同じとは限らない。そんな 「 ぐらぐらしていて、不安定な足場 」 のようなものに、自分の価値を預けてしまうと、どうしても 「 苦しい 」 「 不安だ 」 と思ってしまうことになります。
ここまで考えてみると、 「 誰かの一番になれない 」 という悩みは、単なる人間関係の結果ではなく、 「 自分の価値をどのように確認するか 」 という問題に辿り着くように思えてきます。
「 誰かの一番になりたい 」 「 選ばれたい 」 という思いは自然な願いだし、誰にでもある感情ですが、それだけに 「 自分の価値の判断基準 」 を預けてしまうと、心理的にも不安定になってきます。
だから、もし少しだけ意識を変えるとしたら、 単純なことですが、「 自分が誰かの一番かどうか 」 ではなく、 「 その関係の中で自分がどう感じているか 」 に目を向けてみること。そして、他者へ預けた順位ではなく、その人とのあいだにしか生まれない関係そのものに目を向けてみると、気持ちが楽になるような気がします。
「 自分にはもともと価値がある 」 と確信するのは、正直、難しいことだと思います。でも、少なくとも、 「 一番でなければ価値がない 」 という前提だけは、少しずつ手放していくことはできますよね。
「 誰かの一番になれない 」 という悩みは、もしかすると、自分の価値の判断基準を、外側から内側へと移していくための、ちょうどいいタイミングなのかもしれません。





